はるの玉手箱

ニャンコと熊本・九州情報

いつか・・

ずっと飲酒は控えていた。

お正月のお屠蘇は別として。

 

缶ビール1本飲み干すと、1本では済まなくなるからだ。

それにビールのオツマミも一緒だととっても太るのだ。

私は太りやすい。1年で14キロの減量に成功したのは

晩ご飯を18時までに食べ、飲酒をやめたからだ。

 

食事が18時以降になる場合は、晩御飯を抜きにした。

すると1ヶ月に1キロちょっとずつ痩せ始めた。

 

途中長い停滞期もあったが、現在も体重は維持している。

 

アルコールを飲むと太るということもあるが、昔のことを

思い出し涙が止まらなくなる。泣き上戸かな?

 

多くは子供の頃のことを思い出し涙する。

 

子供のころなぜ自分だけこんな思いをしなければ

ならないのかと思う。

 

なぜ私の両親は普通の家族になれなかったのか?

 

母は私が7歳のころに亡くなった。それ以前に父は傍にいなかった。

幼い私を抱え母はよく働いていたと記憶している。

 

最初の頃は私は母の実家へ預けられていた。

子供を抱えて働くには私は幼すぎたのだと思う。

 

だが母の実家での生活は私には地獄だった。

3歳か4歳か・・一緒に暮らしていた叔父が私につらく当たった。

 

まったく理由はわからない。当時を知る人がもういないから。

暴力は振るわれていないのだが、言葉の暴力がひどかった。

 

子供に恐怖をしっかり植え付けた。

幼い子供は毎日大量の鼻血を出した。毎日だ。

洗面器がみるみるいっぱいになっていくのを覚えている。

 

子供だってストレスを感じるのだ。

一緒にいた祖母と叔父の奥さんは私にはとても優しかった。

 

だがそれ以上に叔父は威張り、叔母や祖母に暴力をふるい皆を黙らせた。

 

そういう状況だから母は私を引き取り、働きながら育てて行こうと

思ったのだろう。

 

それから母は大阪で一人私を育てた。

 

働いて、働いて・・

 

私が小学校に上がる頃、母と父との三人暮らしになった。

束の間の家族。

 

なぜ突然そうなったのか。その1年後に母が病気で他界した。

きっと虫の知らせというものなのか。自分が長くないと無意識に

感じていたのか。

 

あのまま母との二人暮らしを続けていたら私が一人ぼっちに

なるからと思ったのか?

 

その理由も今となってはわからない。

 

だが親戚の勧めがあり、父はその後再婚。

 

また私のつらい日々が始まった。

 

父は不在がちだった。

 

食事も満足に与えられず、家にいれば目障りだからと外に出されたり、

試験勉強するにも電気代がもったいないと言われ、布団に入らされた。

 

勉強も満足できない生活で成績がいいはずもない。

 

その後、父は面倒ごとを九州の叔母夫婦に投げた。

受け入れてくれた叔母の家族には感謝しかない。

 

学校も行かせてくれて、社会に出ることもできて、

人並みに結婚し、子供も授かった。

私の子供に対しても自分の孫のように接してくれて。

 

私も年齢が上がり、今度は息子の心配をしてくれる。

「一人っ子だから私たちとのつながりを絶やさないようにしないと、

息子君が大変だからね」と。

 

片や実父夫婦ときたら・・どうにもこうにも。厚かましい人間は

どこまでいっても、いくつになっても厚かましいままである。

 

実の父親は余命宣告をされた後、私に会いたいと言ってきた。

 

正確には父の嫁から私の叔母へ伝えられたのだが、きっぱり断った。

 

叔母には私の気持ちがわかっていたと思う。

 

継母と私が同じ空間にいることで自分の居心地が悪いと感じ、面倒を避け

自分の姉である叔母へ私の養育を丸投げした父親だ。

 

しかもタダでだ。継母は私のことが憎くて仕方なかったのだと思う。

金銭面でも私にかけるお金はことごとく拒否した。

 

あのままそこにとどまっていたら高校にさえ行かてもらえなかっただろう。

 

そんな身勝手な父親がもうすぐあの世に行くから私へ謝罪し、

その謝罪を受け入れらたら安らかにあの世に行こうとでも思ったのか?

図々しいにもほどがある。

 

父が危篤だと知らされても、「はっ?何で?私が枕元で父の手を握るとでも?」

想像できなかった。もはや血のつながりだけの関係である。

 

夫に話したら「お前はそれでいいのか?後悔しないのか?」と言われた。

 

私は「あの人は自分のしたことをチャラにしようとしてるのよ。許す、許さないを

私にゆだね、自分は仏様にでもなったように『ありがとう』とでも言って

それで仕舞いよ」

 

ひどい人間だ、情がないと言われてもいい。虐待を受けた者にとっては

そんなのは偽善的だ。

 

息子は私の父のことはほとんど知らない。一度だけお年玉を送ってきたことがあった。

たった一度。息子が修学旅行へ行く前だった。

 

「おじいちゃんからお年玉よ」と言って手渡した。

息子曰く「おじいちゃん?ママの?いたの?」と言われた。

 

笑った。私の父への思い、感情を息子には伝えたことがなかったから。

負の感情だから。あの子には私のような思いをさせない、決してするものかと。

 

父が継母との生活を優先した時点で私との関係は絶たれたはずだ。

本人が自覚していなかっただけで。

 

虐待を受けた人間は自身の子にも虐待を与えることが多いと聞く。

または内縁関係であったり、パートナーの子供にひどい仕打ちを

することも多いように思う。

 

熱湯風呂に入れたり、熱湯をかけて殺害したヤツたいた。

同じように煮えたぎった熱湯をかけてやって欲しい。

 

石川五右衛門という人間は釜ゆでの刑であったとか。

同じでいいじゃん。

 

殺された子供は可哀想だ。子供を殺して数年で出てくる。

なぜ日本はこうも犯罪者に優しいのか?

普通は反対だろうに。

 

2週間前、筑後川昇開橋でスカイランタンフェスティバルが開催された。

下は夕方近くの眼鏡橋

 

早く到着し過ぎてまだか、まだかとその時を待つ。

 

しかし待てどランタンは上がらず。きれいにライトアップされた昇開橋だけ

の写真になった。18時30分にフライト予定だった。

昇開橋は重要文化財機械遺産に指定されているとか。

現在は歩道橋になっているが、昔は鉄道が走っていたらしい。

橋の真ん中は昇降するのだ。実際に昇降している所を見ることもできた。

貴重な体験ができた。

せっかくのランタン見物だが、しびれをきらした夫が帰りたいと言い出したのよ。

せっかくずっと待ったのに。

 

きれいな橋の撮影もできたし、良しとするか?

 

足を組んだハルがチビ姉たんの愚痴をこぼす。

 

 

ハル、し~っ。

 

 

 

ハル。また姉たんのパンチが炸裂するわよ。

 

 

以前もこのブログに書いたが、私の夫は息子に手を挙げたことは

一度もない。

 

危険な場面で「危ないでしょ」と言い、ポンとお尻を叩く程度だ。

 

息子が成長し反抗期の時も私が叱っても「ふんっ」と鼻で

笑うような態度であったが、私が「このことはパパに言う

からね」と言った途端、涙目になり「パパには言わないで」と。

 

何だか納得した。これが躾なんだと感じたものだ。

 

息子に注意が必要な時も夫と息子の二人で静かに会話していた。

内容はよくわからないが、私まで同席すると素直になれないのかな。

子供が納得するまで会話する。

すぐに手を挙げては子供は訳が分からないだろうに。

 

息子なりに父親の信頼を裏切りたくないという気持ちからなのかとも思った。

 

現在も私と話すときはそっけないが、夫とは笑顔で話す。

 

何だ、その差は。

 

だがその夫の接し方のお陰で道を踏み外さずに大人になった。

責任ある職にもついている。

 

私は父親とは違う。

 

私は虐待されて育ったが、子供に暴力を向けることはしなかった。

周りの協力もあったし、人(親以外)との縁に恵まれたのかもしれない。

 

自分に起こったことはもう変えられないし、もう昔のことだ。

 

わかってはいるが・・

 

いつかはお酒を飲んでも泣かなないようになるかな。

いつか忘れらるのかな?

 

さあ、来週は長崎のランタンフェスティバル

福山雅治」さんが見られるかな~

 

いらしてくださってありがとうございます。

ブログランキングに参加しています。

☟ポチっとしていただけると励みになります。

人気ブログランキング
人気ブログランキング 

にほんブログ村 にほんブログ村へ
にほんブログ村